ここに魂を置いておく。

いまさきたかしの人生観、諸々について。

人生が人を打ちのめす。

わたしは
どうしても人生には

あるなんらかの【ちから】が働いているように想ってしまう


びょうきになった
最愛の人と死別した
描いた目標とは違う目的地にたどりつく
天災にあった



人生には、理解のできないことがよく起こる


そして、人は因果をしりたがる


その。理由を求めてしまう。


でも、そのきもちを納得させるだけの解、真実にはたどりつくことはない。



わたしたちは、不完全な人間だから。



実は、いちばん、自分自身が


『この人生、いったいどこにたどりつくのか?』と


不安、たのしみ、ごちゃまぜで見つめている。



確かに


自分の人生を操縦しているのは


自分なのだけど、同時に光の大いなる意志のようでもあるきがして。



わたし自身に求められているのは


起こったできごとの正否を問うとかそんなちっぽけなことではなくて


できるだけ


脳の理解をやめなさい。と天に言われているような感じがしているんです。



最期は人間、祈るしかできないんだろうな、と。

f:id:soul-space:20170916101812j:plain

究極のシンプルな在り方

それは


ごはんをていねいにつくって



大好きなひととごはんを囲んで



自然にできるだけ触れ



花を贈り



花を受け取る人生



実際、それだけでよいって想ったら



それ以外のことは贅肉のようにも想う。


f:id:soul-space:20170915095302j:plain



人間には『欲』がある。というけれど


本当にそうだろうか



わたしは、それを煽っている面のほうが強いように感じる。都会に生きるとなおさらね。

自分の面倒をみながら

人間関係ってたいへんだ。


なぜか?


それは


自分と相手が、別々だから


そもそも、そだちも暮らしも違っているいきものだから



それでも、いっしょに生きていかなければ




誰かのちからを借りなければ、生きていけないから




【自分自身との関係も、人間関係だよ】



という、ことばにはっとする。



そう、相手以前に




自分は自分にどう向き合っているのかというのは



死ぬ間際まで問われる。




中には四六時中人と付き合っていても疲れないというひともいるけれど



わたしは



自然のなかでぼーっとしたり



ひとりで本を読む時間がとても大切だなぁとおもう



それによって


バランス感や疲労を回復している




そして、今日も



自分の声を聴く。f:id:soul-space:20170915070328j:plain

そのひとのくうき

この間、死のワークショップでお世話になったみんながカレーを食べに来てくれました\(^o^)/


f:id:soul-space:20170914215411j:plain


なんだろ、みんなすごくまなざしが深いなぁって想う。

ほんとは、もっとそういう根源的なはなしを日常的にしたい

もちろん、同じように冗談いいあって

大笑いもしたい



わたしは


自問自答している人がすき


内省的なひとがすき


その人が生きることについてどれだけ


考え、悩み抜いているかって


言動の端々ににじむから


つたわってしまうんだよ


その逆もしかり



彼らのような存在にふれると


わたしは、日本は大丈夫だと心から想う。

大手=???

わたしは、いろんな飲食店で働いてきたので

いろんな職場のひとたちをみてきたけれど


どことなく


大手企業の経営する飲食店は


ただの機械労働であることが多いというのが


実感。


それが悪いとかどうとかよりも


【働く前にあなたにそれがフィットするのか?】


を徹底的に熟考したほうがいいと想っています。



たとえば、飲食店ではたらくなら


よっぽど行きつけになっているとか



そこのお店の人とすでに信頼関係ができている



お店の人たちの人柄を理解している



というくらいのレベルのほうが望ましいという話です。



そうじゃないと



《はたらく=ギャンブル》になってしまう。。。




ちなみに


わたしは、会社のホームページとかあまりみないし

あてにしません。



なぜならいいことしか書いていないから。



わたしは一時期そういうホームページがしっかりしてるなら、この会社もきっと理念の通りにしっかりやっているのだろう、なんて安易なきもちで会社を決めたりしていました。


そんなことあるわけないですね。



なぜなら、人間だから。
f:id:soul-space:20170912064301p:plain

自分の終着点を決める。

今日は霊園の見学にいってきました。


自分のお墓をみるためです。

f:id:soul-space:20170909222021j:plain


縁もゆかりもない場所だけれど


とても自然豊かで、眺めもよく、


春には桜が満開になるそうです*



自分は、実際問題、親類との関係も疎遠なので



必然的に孤立して


自分の最期は自分でどうにかしなくてはならない



そういう状況が、今の心境を生み出したのだと想います。



しかし、


その霊園にいらっしゃった


葬祭ディレクターの方にお話伺うと


急に身内がなくなって


ばたばたと揉める中で、


何百万もする墓を買い、


買ったあとで、宗教だのなんだのすったもんだがあり


いろんな霊園を回ったり



お寺の霊園にしたところ、毎年いろんな費用がかさんで困っていたり


そんな相談も多いそう。


中でも、お墓は、購入と同時に撤去代まで払わなくてはならないというのにはおどろきでした。


厳密に言うと永久にお墓は置いておけるものではなく
あくまで権利を買っているだけなので


その契約が終了と同時にお墓は撤去するのですと。



わたしも、とてもこの場所がきにいったので


ほぼこの霊園で決めようと想っています。



ひとつひとつ着実に。
f:id:soul-space:20170909222659j:plain



これから、どんどんシンプルな葬儀、埋葬法が広がっていくのでしょうね。


このけやきの下に眠るのかと想うと


どこか優しいきもちになりました。

死=美談という定義を降りる

死は、美しく語られがちだと想う。


うん、それは素晴らしい。それが、理想なのも納得がいく。


しかし、人口一億人もいて


みながみなそうなるだろうか。


嘆きや罵りとともに死んでいく人が多いと友人の看護師さんは語っていた。

なんとなく、そちらのほうが

わたしは真実味を感じる。


たしかにそれは受け容れがたい。


なんで自分の身内の死がそんなふうに


終わってしまうのだ!とさらに怒りが生まれるかもしれない。



事実、わたしの母親の最期も


例にもれないかたちであった。



急に倒れて入院したら

末期の宣告。


数日後には、水も飲めない、歩けない状態になった。


わたしたちはなにもできなかった。


唯一の救いはありがとうを伝えられたこと。



しかし、母親の残した最期のことばはーー



















『あの人は、薄情だから。』





そう、あの人とは、父親です。


これが、40年連れ添った最期。



そのときはわたしも本当に怒り心頭だったけれど



今、想うと、


なんか、うちの親らしいと、どこか笑える。


特にうらみつらみもない。



本当に対話というものをしてこなかったひとたちだから


お互いを理解するエネルギーがもう途中で枯渇したんだろうなぁ、、と想う。


でも、『ばかやろう』とか


『こんな人と結婚するんじゃなかった』


とかって、言葉尻だけ捉えると悲惨だけど



人間を全体性で捉えてみたときに



そっちのほうがふつうじゃないかとすら感じる。




なぜなら


人間はひとりひとり違うから。



夫婦は他人だから。




《人と人は理解できない》





《死は美しいという定義から降りる》





わたしは、そこから



自分を理解し、相手のまるごとみつめるという関係性が生まれるものだと想っている。



ここで書いたことがうまく表現されてる
作品が
さだまさしさんの、《アントキノイノチ》です


映画好きなので、映画紹介ブログになりそうだ、、、
f:id:soul-space:20170908100354p:plain


宅配買取は【ブックサプライ】