ここに魂を置いておく。〜ミタクエオヤシン〜

いまさきたかしの人生観、諸々について。アートサロン・ミタクエオヤシンの情報発信。

死=美談という定義を降りる

死は、美しく語られがちだと想う。


うん、それは素晴らしい。それが、理想なのも納得がいく。


しかし、人口一億人もいて


みながみなそうなるだろうか。


嘆きや罵りとともに死んでいく人が多いと友人の看護師さんは語っていた。

なんとなく、そちらのほうが

わたしは真実味を感じる。


たしかにそれは受け容れがたい。


なんで自分の身内の死がそんなふうに


終わってしまうのだ!とさらに怒りが生まれるかもしれない。



事実、わたしの母親の最期も


例にもれないかたちであった。



急に倒れて入院したら

末期の宣告。


数日後には、水も飲めない、歩けない状態になった。


わたしたちはなにもできなかった。


唯一の救いはありがとうを伝えられたこと。



しかし、母親の残した最期のことばはーー



















『あの人は、薄情だから。』





そう、あの人とは、父親です。


これが、40年連れ添った最期。



そのときはわたしも本当に怒り心頭だったけれど



今、想うと、


なんか、うちの親らしいと、どこか笑える。


特にうらみつらみもない。



本当に対話というものをしてこなかったひとたちだから


お互いを理解するエネルギーがもう途中で枯渇したんだろうなぁ、、と想う。


でも、『ばかやろう』とか


『こんな人と結婚するんじゃなかった』


とかって、言葉尻だけ捉えると悲惨だけど



人間を全体性で捉えてみたときに



そっちのほうがふつうじゃないかとすら感じる。




なぜなら


人間はひとりひとり違うから。



夫婦は他人だから。




《人と人は理解できない》





《死は美しいという定義から降りる》





わたしは、そこから



自分を理解し、相手のまるごとみつめるという関係性が生まれるものだと想っている。



ここで書いたことがうまく表現されてる
作品が
さだまさしさんの、《アントキノイノチ》です


映画好きなので、映画紹介ブログになりそうだ、、、
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