夢
今日。人の夢を聴いた。
夢を語れるって素敵だと想う。
実現するかどうかじゃなくて、それを
ことばにして伝えられること。とてもすてきだと想う。
そして、わたしの夢はなんだろうと想う。
わたしの夢は、死なのかもしれない。
人生が人を打ちのめす。
わたしは
どうしても人生には
あるなんらかの【ちから】が働いているように想ってしまう
びょうきになった
最愛の人と死別した
描いた目標とは違う目的地にたどりつく
天災にあった
人生には、理解のできないことがよく起こる
そして、人は因果をしりたがる
その。理由を求めてしまう。
でも、そのきもちを納得させるだけの解、真実にはたどりつくことはない。
わたしたちは、不完全な人間だから。
実は、いちばん、自分自身が
『この人生、いったいどこにたどりつくのか?』と
不安、たのしみ、ごちゃまぜで見つめている。
確かに
自分の人生を操縦しているのは
自分なのだけど、同時に光の大いなる意志のようでもあるきがして。
わたし自身に求められているのは
起こったできごとの正否を問うとかそんなちっぽけなことではなくて
できるだけ
脳の理解をやめなさい。と天に言われているような感じがしているんです。
最期は人間、祈るしかできないんだろうな、と。
究極のシンプルな在り方
それは
ごはんをていねいにつくって
大好きなひととごはんを囲んで
自然にできるだけ触れ
花を贈り
花を受け取る人生
実際、それだけでよいって想ったら
それ以外のことは贅肉のようにも想う。
人間には『欲』がある。というけれど
本当にそうだろうか
わたしは、それを煽っている面のほうが強いように感じる。都会に生きるとなおさらね。
自分の面倒をみながら
人間関係ってたいへんだ。
なぜか?
それは
自分と相手が、別々だから
そもそも、そだちも暮らしも違っているいきものだから
それでも、いっしょに生きていかなければ
誰かのちからを借りなければ、生きていけないから
【自分自身との関係も、人間関係だよ】
という、ことばにはっとする。
そう、相手以前に
自分は自分にどう向き合っているのかというのは
死ぬ間際まで問われる。
中には四六時中人と付き合っていても疲れないというひともいるけれど
わたしは
自然のなかでぼーっとしたり
ひとりで本を読む時間がとても大切だなぁとおもう
それによって
バランス感や疲労を回復している
そして、今日も
自分の声を聴く。
そのひとのくうき
この間、死のワークショップでお世話になったみんながカレーを食べに来てくれました\(^o^)/
なんだろ、みんなすごくまなざしが深いなぁって想う。
ほんとは、もっとそういう根源的なはなしを日常的にしたい
もちろん、同じように冗談いいあって
大笑いもしたい
わたしは
自問自答している人がすき
内省的なひとがすき
その人が生きることについてどれだけ
考え、悩み抜いているかって
言動の端々ににじむから
つたわってしまうんだよ
その逆もしかり
彼らのような存在にふれると
わたしは、日本は大丈夫だと心から想う。
大手=???
わたしは、いろんな飲食店で働いてきたので
いろんな職場のひとたちをみてきたけれど
どことなく
大手企業の経営する飲食店は
ただの機械労働であることが多いというのが
実感。
それが悪いとかどうとかよりも
【働く前にあなたにそれがフィットするのか?】
を徹底的に熟考したほうがいいと想っています。
たとえば、飲食店ではたらくなら
よっぽど行きつけになっているとか
そこのお店の人とすでに信頼関係ができている
お店の人たちの人柄を理解している
というくらいのレベルのほうが望ましいという話です。
そうじゃないと
《はたらく=ギャンブル》になってしまう。。。
ちなみに
わたしは、会社のホームページとかあまりみないし
あてにしません。
なぜならいいことしか書いていないから。
わたしは一時期そういうホームページがしっかりしてるなら、この会社もきっと理念の通りにしっかりやっているのだろう、なんて安易なきもちで会社を決めたりしていました。
そんなことあるわけないですね。
なぜなら、人間だから。